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TERPSICHORE(テルプシコール)とは?

TERPSICHORE(テルプシコール)

ギリシア神話の女神で、ゼウスとムネーモシュネー(記憶)の間に生まれた九人のムーサ(ミューズ)の一人と云われ、合唱隊の叙情詩と舞踊を司る女神と云われている。初めて裸足で踊ったという伝説の舞踊家、イサドラ・ダンカンが『テルプシコールに捧ぐ』という作品を踊った事も有名。1981年に設立したこのスタジオを「テルプシコール」(フランス読み)と命名したのは、舞踊評論家の故・市川雅氏。

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舞台批評

舞踏縁、ダンス縁を生きる──舞踏舎天鶏と舞踏青龍會周辺(国立稽古)
文・北里義之

 社会学者の上野千鶴子に、「女縁」という言葉でとらえられた、実証的な女性たちのネットワーク研究がある。血縁、地縁、社縁(会社縁)で構成される日本人の人間関係をはみ出す選択縁(自由に選べる縁)のあり方のひとつを、「脱血縁・脱地縁・脱社縁の絆」として積極的に評価したものだ。この場合の「脱」は、地域や血縁に縛られて生きること、依存して生きることの相対化を意味している。往々にして「世外」というように否定的に見られがちだが、似たような事情は、経済的な基盤を共有するカンパニーでもなく、ましてや血縁でも地縁でもなく、参加の自由度によって結社と呼ばれるべき数々の舞踏舎にもあり、その内外で生きられている人間関係を、上野にならって、舞踏縁(より一般的にはダンス縁)と呼ぶことができるように思う。単独者として出現しているように見える舞踏家たちもまた、このような目に見えない舞踊ネットワークに支えられていて、この縁を積極的に生きることで生み出されてくる自由な個のありようが、数々のダンス公演において、個性的な身体表現を生み出す基盤にもなってくる。あるいは、踊りの現場を離れた話だが、ごく最近、長谷川六が編集長を務める季刊誌『ダンスワーク』が、「ダンスレゾネ」シリーズを企画して上杉満代や深谷正子をたてつづけに特集しており、これもまた女縁とダンス縁の交差を強く感じさせる出来事になっている。巨大な資本が動かすダンスの周縁に広がる領域は、むしろこうした多様なダンス縁によって編みあげられている。以下の記念公演もやはり、そのような舞踏縁があってこそ生まれたふたつの公演といえるだろう。

 舞踏舎天鶏主催「鳥居えびす映像展Ⅰ『断章の トタンに ダンス』」(観劇日=5月23日)故・鳥居えびす(1951~2013)は、土方巽の舞台に衝撃を受け、大駱駝艦で麿赤兒に師事し、1981年に独立して田中陸奥子と<舞踏舎天鶏>を設立、海外公演も含む多くの作品を残した舞踏家である。その業績をふりかえる映像展は、『むしがし物語』(1993年)、『ノクターン』(1997年)、『彼方』(2000年)など、過去の記録映像から鳥居ソロの部分を抜粋上映した第一部と、1995年にテルプシコールで公演された『Lの肖像』の冒頭45分を、過去の記録映像と舞踏舎天鶏のパフォーマンス(田中陸奥子、サイトウカオリ、月丸花樂)で再演する第二部とで構成された。特筆すべきは、まるで『カイロの紫のバラ』を観ているようだった第二部の公演で、生身の身体が映像との間を往来するところに、過去と現在の時間を混線してしまう夢見の効果があったばかりでなく、ステージに三角形を作って立つ三人が、両手をヘソのあたりで交差させ、爪を立てた格好のままで、ススッとお小姓歩きをして位置を入れ替える場面や、なかのふたりが野良犬に変身して、四つん這いになって目を剥く場面などには、暗黒舞踏の質感をまざまざと蘇らせる内実があり、舞踏舎天鶏の再出発を強く印象づけるものとなった。

 縫部憲治追悼『ランゲルハンス島異聞』(観劇日=7月25日)。原田伸雄が主宰する舞踏青龍會からスタートした縫部憲治(晩年に「縫部縫助」と改名)は、同會が東京から福岡に拠点を移してからも交流をつづける一方、独自に「国立稽古」を主宰したり、ソロ公演をしたり、また舞踏の領域の外でも、深谷正子の作品に参加するなどして活動した踊り手である。没後一周年を追悼する本公演では、最初に、2010年4月にテルプシコールで開かれたソロ公演『イントロン』の記録映像が上映され、小休憩をとったあと、生前の縫部と深い関係にあったダンサー/演奏家たちによるパフォーマンスがおこなわれた。青龍會の稽古仲間だったブラジル在住の田中トシとスカイプで回線をつなぎ、地球の裏側でおこなわれるパフォーマンスを同時中継するライヴ映像を背景に、室野井洋子やヴァイオリンの後飯塚僚が即興的に共演した『鳥たちは』、「ダンスの犬 ALL IS FULL」で制作された数多くの作品に、縫部の身体とパフォーマンスを求めた深谷正子による喪服のダンスと、マイルス・デイヴィスのように身体を二つ折りにして、渾身の力でサウンドを揮発させるトランペットのKO.DO.NAによるデュオ『きまじめな頭蓋へ』。そして舞踏青龍會の原田伸雄が福岡から来京、『イントロン』で使用された縫部のトレードマークというべきウエディングドレスの衣裳を身にまとい、雛壇になった観客席の背後から登場するソロ『幽霊の花嫁』などがおこなわれた。

 どちらの公演も、客席は超満員であった。同様のことは、「神山貞次郎を偲ぶ会&出版記念の宴」(2014年12月)の超満員でも起こっていたはずである。これはおそらく、人々が、ネット社会の深化によって消失の危機にさらされているローカルなコミュニティを、本能的に希求しているためではないかと想像する。そのとき私たちが念頭に置いておくべきは、私たちの結んでいるのが、閉じた共同体という意味でのコミュニティ(共同幻想)ではなく、選択縁による自由なアソシエーション(自己幻想)だということであろう。この意味において、舞踏を含むダンスの表現領域には、いまなお、というよりも、これまで以上に、大きな希望や可能性が託されているのである。

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