• 劇場施設
  • 公演日程
  • 劇場利用案内
  • 申し込み方法
  • 機材について
  • アクセス
  • お問い合わせ

HOME > 舞台批評

  • 舞踏新人シリーズ
  • 稽古場としての使用
  • 置きチラシについて
  • 舞台批評
  • 過去の企画公演

TERPSICHORE(テルプシコール)とは?

TERPSICHORE(テルプシコール)

ギリシア神話の女神で、ゼウスとムネーモシュネー(記憶)の間に生まれた九人のムーサ(ミューズ)の一人と云われ、合唱隊の叙情詩と舞踊を司る女神と云われている。初めて裸足で踊ったという伝説の舞踊家、イサドラ・ダンカンが『テルプシコールに捧ぐ』という作品を踊った事も有名。1981年に設立したこのスタジオを「テルプシコール」(フランス読み)と命名したのは、舞踊評論家の故・市川雅氏。

舞台批評

天狼星堂の舞踏について──天狼星堂舞踏公演─域─2019「そこから先は独りでしか行けない」(観劇日:5月26日)
文・北里義之

 数年ごとに開催されている天狼星堂の会「ZONE 域」に集結した今回のメンバーは、ワタル、辻たくや、小林友以、野井杷絵の4人。公演の全体は、個々のメンバーが出入の時間をずらすことで、ソロとデュオがサンドイッチ状になって踊られてゆくという構成がとられ、ひとつらなりの時間のなかに踊りの場面が織りこまれるというスタイルをとった。ソロとデュオをワンセットとみなして全体の流れを記してみると、(1)大森政秀ソロ→ 全員の群舞→ 大森政秀ソロ、(2)小林友以ソロ→ 小林友以+辻たくや、(3)野井杷絵ソロ→野井杷絵+ワタル、(4)小林友以ソロ、(5)ワタル+辻たくや、(6)野井杷絵ソロ→ 大森政秀ソロという具合になる。即興性を強く感じさせる踊りの部分があり、それと対照的な小林ソロ、ワタル+辻のデュオが、前後を暗転で区切ることも含め、踊りに作品性を与えることで全体の流れを切断する場面としてはさみこまれ、公演の全体を引き締める役割も果たした。

 周知のように、演劇的なものであれ絵画的なものであれ、また自己表現であれ異形の身体への越境であれ、舞踏にはある身体イメージや身体の風景をステージ上に現出するという伝統があるが、天狼星堂の「域」公演はそうしたイメージを前面に出すことなく、各メンバーは、すべての踊りの基本になるような関係性の構築というベーシックな身体技術を提示してみせたと思う。ここでいう「ソロ」や「デュオ」も、通常のダンスで振付けられるような形式を意味するものではなく、ソロの場合であれば身体を通しての自己との関係性を、またデュオの場合であれば身体を通しての他者との関係性を、それぞれに構築する行為といえるもので、この点に立っていえば「そこから先は独りでしか行けない」という今回のタイトルは、人みなすべての孤独についていうにとどまらず、天狼星堂の舞踏における身体技術の本質をもいいあらわしたものといえるだろう。

 舞踏における技術がよく問題になるが、それは技術以上に重要なことがあるとか、「暗黒」──社会から否定的な価値観を帯びさせられている身体──までも含んだあなた自身が作品なのだという存在の全肯定に立つ思想を背景に持ちながら、ただそれだけで理解されるべきものではなく、実践においては、抽象性を前提にしたモダンダンスの身体技術が読み替えられ、同じ言葉を使ったとしても、つねにすでに別のものへと変化してしまった身体観のうえに構築された身体術であることが重要になっている。それは技術なしでも踊れるということとは別のことであるし、おそらくこうした本質が見失われたところに、演劇的でもあれば絵画的でもあるようなイメージをトレースするだけの身体技術が派生してくることになったのだろう。これは捩子ぴじんが「コスプレ」と批判したものに相当するが、彼のような後進世代は、そうした現状を切実に受け止めると同時に逆手にとるようにして、ただいま現在の地点から舞踏をリサイクルする独自の方法を模索する作業をはじめている。こうしたなかで天狼星堂が歩んできた道は、これだけははずせないという舞踏の本質を、何度でも再確認する作業だったといえるのではないだろうか。

 このことに関連して、舞踏の群舞についても触れておくべきだろう。公演の冒頭で、最初にソロを踊った大森が、楽屋口にかかる黒幕をバッと勢いよく開くと、そこから次々に飛び出してきた4人のメンバーは、ベンチャーズのサーフィン・サウンドやストーンズの「サティスファクション」といったオールディーズに乗って、上体を左右にふったり、クロスした両手をつないで横並びすると、左右にステップして下手にはけていくという、「白鳥の湖」のパロディのような集団舞踏をくりひろげた。このオーバーチュアの場面では、通常のダンスで振付けられるユニゾンや反復の身ぶりにかえて、均質化されることのない身体が集合しながら、一種のゲーム的な関係性が踊られていた。厳密にいうなら、舞踏に群舞は存在しないというべきだろうか。たとえば、ユニゾンが存在する大駱駝艦の舞踏公演は、舞踏の方法論をロバート・ウィルソンのようなイメージの演劇に応用したところに生まれてきたスタイルと考えたほうがわかりやすい。

 今回の「域」公演は、ソロとデュオが流れるように交代していくなかで即興的な踊りが展開していく場面と、流れを切断しながらさしはさまれたふたつの場面──小林友以のソロ、ワタルと辻たくやのデュオ──にわけることができる。前者を構成するふたつの場面のうち、小林と辻で踊られたデュオは、ふたりして舌を出したり、前屈姿勢になってにらめっこしたり、ホリゾント壁に立ち並んでもぞもぞと手を伸ばしあい、指が触れるとイソギンチャクの触手のようにピクッと引っこめたりする遊戯的な舞踏が踊られた。最後には、伸びてきた辻の手をパシッとつかんだ小林が、彼を扉口まで引きずっていって幕が降りた。それに続いて、野井の長いソロのあと黒い腹がけ衣装で登場してきたワタルとのデュオは、野井に近寄っては離れる動作をくりかえして近づきがたくしているワタルが、踊り手の足の裏や背中にかろうじて触ったあとさっさと先にはけていくというあっけない終わり方で、いずれも女房に頭があがらない亭主のようなコミカルさが印象的なセットだった。

 ワタルが登場する前、長く踊られた野井のソロは、質感を異にしながらも、続く小林のソロに引き継がれる性格をもっていた。ドスドスと音を立ててステージを歩き、少し立ちどまっては観客席を見るという動きから入った野井は、深い前屈姿勢から上体を床ぎりぎりにまでさげ、伸ばした左手で床に触れたり擦ったりする動き、両手首を床につけて蹲踞しながらの半回転、床に転倒してのエビ反り、床上を横転しながら両手足をバラバラと動かすなど、床を使って動きのバリエーションをとっていくものだった。対する小林友以のソロは、暗転による流れの切断に見合うような自己との対峙の仕方を見せ、舞踏の本質を突く内容を持っていた。ホリゾント中央に丸くうつぶせて長時間静止する冒頭、余分な動きを排除して静かに立ちあがる行為、前にあげた右手に先導されるように、上体や視線を動かすことなく観客席前へと静かにたどられる動線、観客席前でのゆっくりとしたターン、肩越しの見返り、ホリゾント前に進み、水泳のスタート台に立って深く前屈するような姿勢をとってからの突然の床へのダイヴ、ここからはつねに不安定な姿勢を保ちながら動き、冒頭のように丸くうつぶせになる姿勢を介してターンしながらホリゾントに向かうところで暗転した。

 これに対して、なぜかここだけ登場をずらすことなくいっしょに舞台にあがったワタル+辻のコンビは、ふたり横並びして正座すると、そろってまったく同じ動作をしていくという奇抜な踊りをはじめた。頭をさげる高さまで意識的にそろえて床に両手をつく姿勢、ゆっくりと床から手指を離していく動き、立て膝になって静かに尻をあげていく動作、伏せたままの形を保ちながら床を離れる手、ふたりは顔を合わせるように内側に向かってターンすると、ホリゾントまで進んで開いた両手を壁にあげたまましばしの静止、また手指をゆっくりと壁から離すと今度は外向きにそろってターン、ここでも横並びを保ちつつ両手をあげて観客席前へと戻る途中で魔法が解け、別々に大きな動きを踊っていく後半へと突入していった。前半のそろった動きがユニゾンにもコンセプチュアルにも見えないのは、スピードの遅さによるものではなく、実際そこに均質化されない別々の身体、別々の動きがあるからという以外にはないように思われる。それがあえて同じ動きをしてみせたところに、身体を離れ作品を構成するような表象戦略の存在を感じさせた。

 そして構成・振付・演出を一手に担当した大森政秀は、公演のプロローグとエピローグをソロで飾った。プロローグでは足音を立てないようにして夢遊病者のように舞っていきながら、右手で左肩をパシッと打ったり、上手の壁をおおう黒幕を背にして立ったりしてステージを反時計回りに一周、舞踏で空間を聖別しながら天狼星堂のメンバーを召喚する先触れ役を務めた。ここには演出家として場面をリードする側面もあったろう。天狼星堂のメンバーが狂騒の舞踏をくりひろげる間も、その場に居ながらにして別次元を漂うような大森の踊りはまさに亡霊的なものだった。メンバーが下手の黒幕の裏にそろってはけていったあと、もう一度ステージを一周すると、上手の黒幕を引き開けて鏡を露出、ターンしたり、床をたたいたり、上体をめちゃくちゃに動かしたりする諧謔味を見せながら、楽屋口にかかる黒幕を閉じてオーバーチュアの場面をしめくくったのだった。

 これに対してエピローグの場面では、大森が登場する前に、ステージをドスドス歩いては立ちどまるという行為をくりかえす野井が先触れ役を務めた。彼女が人差し指を立てた手を真上に突きあげて下手にはけていくのとすれ違いに、黒い衣装に身を包み、やはり人差し指を天井に突きあげた大森が登場、まるで彼女の影が勝手に動きだしたような登場の仕方で、息を飲むような一瞬だった。

 夢遊病者のようにさまよい諧謔味にあふれた大森の舞踏。すでにここまで生きた身体に舞踏を帯びているような練達の踊り手にとって、身体を通して自己との関係性を築くという舞踏技術は、けっして答えがひとつではない身体の多様性を、答えを無限の彼方にまで引き伸ばすようにして、どこにも着地することなく漂いつづけるという、先に「亡霊的」と呼んだような舞踏を踊るものだった。明快な表現を味わいたいという観者の欲望に対して、目標のない曖昧さの領域を正確にさまよっていくという、この身体の亡霊状態をつかまえるのは、やはり一朝一夕には獲得できない身体技術を極める作業なのだと思う。今回の公演では、照明でホリゾントが真赤に染まり、ガラスの割れる音が延々と続くジョン・ゾーンの『クリスタルナハト』が流れて陰の領域が暗示され、それがパフォーマンスへの入口となった。ホリゾントの壁に向かって大手を開きながらくりかえされる上体の前屈、ふたたび黒幕を引いた楽屋口の向こうに開ける漆黒の闇(公演冒頭の記憶が瞬時に再来する場面だった)、鉤爪に作った左手を受け手にしてその手のひらを右手の人差し指でツンツンとするしぐさ、猫のように音を立てずにおこなう両足でのジャンプ、酔ったようなジグザグ歩行、四つんばいになっての床上移動、ホリゾントの壁に両手をあげた姿勢のままステージを半周して観客席に向かう周囲が壁というような動き、上手にかかる黒幕の開け閉て、ホリゾント壁の渦巻き模様を指さして舌を吐くなど、舞踏家の身体を脈絡なく訪れる動きが次々に形をとっていく多面体の舞踏は圧巻の一言であった。

森の直前の夜にたたずむ人
文・高橋宏幸

 コルテスには人を感化させる力がある。いや、正確にいうと、そのエクリチュールにあるというべきだろう。バルトの『エクリチュールの零度』にあるように、エクリチュールとは、単なる言語や文体を指すものではなく、それらが囲う制度をこえるべく、自由さへの機能としてある。むろん、日本語に翻訳された場合、それは翻訳のエクリチュールとも関係する。

 では、それが舞台で上演されたとき、どうなるのか。俳優がエクリチュールを語ったとしても、パロールとして消尽されたものとは言えない。それは、上演という行為によって紡がれる、身体のエクリチュールとでもいうべきものだ。いや、少なくともそれが求められる。だから、バルトほど演劇に言及した批評家もめずらしい。文学はもちろん、ブレヒトをはじめ、演劇のエクリチュールも同時に探求した。

 今回上演された、ベルナール=マリ・コルテス、佐伯隆幸訳の『森の直前の夜』は、すでに日本で何度か上演されている。たしか今まで二度観ている。日本で、日本語での上演という限定はつくが、それでも記憶をたぐりよせると、どちらも佐藤信が演出したものだ。一度目は黒テントの公演、俳優は斎藤晴彦。二度目は鴎座での公演、俳優は笛田宇一郎。二度目の公演の場所は、同じテルプシコールだった。そして、今回は俳優、演出ともに笛田宇一郎となる。

 その戯曲というよりも小説、もしくはテクストである『森の直前の夜』について記述することは難しい。少なくとも、物語や筋を追うものではないからだ。絶え間ない流れのようなエクリチュール。とめどないめくるめくつらなりを、だれかに投げつけるかのようにひとりの男が話す。そこから垣間みえるのは、たとえば性、階級、人種など、大げさに政治性を謳うものではないにしろ、それらが時おり浮上して何かにゆるやかに変遷して消えていく言葉たちだ。マドレーヌから意識に浮かんだ記憶を手繰るような上品なものではない。もっと粗野で、滑稽で、まるでこの世界にいながら、世界を外れた場所で見つめる男が、のべつまくなし愚痴り呪詛する。

 ただし、それが舞台となってあらわれたとき、そのあらわれとしての行為を記述することは、ただただシンプルだ。ひとりの男が立って、身じろぎもせず、じっと立って話す。この演出の方法自体は、鴎座で佐藤信が演出をして、笛田宇一郎が出演したときと同じだ。しかし、そこで受けとった印象は真逆だ。むしろ、これほどまでにリテラルには同じことが、まったく違って浮かぶ。

 佐藤信が演出したときは、語る俳優とその身体が、おそらく演出の意図として、どこまでも希薄になっていった。ただ立つことによって、逆に肥大するかのような俳優のプレゼンスを徹底的に薄めるように、またひとり芝居で明確な物語もない膨大な言葉を話すという、大変な労力と同時に悦楽的な行為を、はるかに後景に退かせた。俳優に対して、舞台空間そのものについて、それは圧倒的に禁欲的なものだった。コルテスのエクリチュールに俳優の身体が覆われては消える。むしろ小さな空間をコルテスのエクリチュールで満たして、その言葉の渦に観客を巻き込ませる。観客が、その言葉たちを追おうと意識を集中させても、それすらも軽やかにかわす。むしろ、上演後にテクストを読む必要があることを思わせる。

 しかし、今回の笛田宇一郎事務所の公演は、それとまったく違った。床にはいくつかのオブジェが舞台美術として転がっている。そこで話される言葉たちは、一応に聞きやすく、とくに筋がつながるようなものではないのに、まるで頷かせるように語りかける。それは俳優としての存在感を、もしくは動かないとしても演技を、思うままにこれでもかと発揮しているように見える。そもそも演技術の一つにあるのは、朗唱術だ。わかりやすく、心地よく、相手に理解させる。テクストをパロールとして伝えることは、本来の演劇の役割だ。舞台のあとでテクストを読む必要があるのではなく、テクストという設計図をわかりやすく舞台にあげる、という、演劇的な、あまりに演劇的なことを気づかせる。その意味では、まるで王道なる演劇を観ているようだった。おそらくこの俳優は、いわゆる西洋演劇として、日本でいうところの近代演劇のスタイルとしての「新劇」なるもので、ふつうにお芝居をしても上手だろうな、と。いや、むしろ、これこそがお芝居である、と思わせる。

 同時にそれは、単に立っているだけといっても禁欲さとは違う。禁欲による快楽(マゾヒズム)は、逆説的に俳優の欲望を叶えるためのテクストを求めている。その意味では、確かにこの上演された作品は、俳優のためのテクストとなった。実験という言葉が遠のいて久しいいま、実験がもはや成り立たないことを、コルテスの上演を通じて気づかせられるアイロニーといってもいい。それは、同じようでありながら、全く違う二つのものを浮き彫りにした。

過去の舞台批評